こんばんは(^o^)
97歳で、大学を卒業した男性がいます。
学位は、4つも持っているそうです。
若い人でも、簡単にはできません。
「卒業後は何をしたいですか」と聞かれると「ガーデニングをやりたい」と言っていました。
ガーデニングをやりたいと言いながら、ガーデニングの勉強も、本格的に始めることでしょう。
専門書を片手にガーデニングを楽しんでいる光景が、目に浮かびました。
夢があっていいです。
新しいことを覚えると、楽しみは、もっと楽しくなります。
年を取ると、記憶力が衰えると言いますが、ジョークです。
本人しだいです。
本人に勉強する意欲があれば、年を取っても、新しいことを覚えられます。
「覚えたい」「覚えよう」という気持ちがあれば、いくつになっても覚えられます。
どんなにお年寄りでも、孫の話は、よく覚えているものです。
「世の中には、すごい人がいるものだ」と驚いて、終わりにするのではありません。
「人はやればできるんだ。負けていられない」という気持ちに転換しましょう。
特に脳は、体の中で最も老化が遅い部分です。
次はあなたが、新記録を打ち立てる出番です。
前例がなければ、自分が前例を作ればいいのです。
こんにちは(^o^)
「死にそう」という口癖に心当たりはありませんか。
もちろん本当に命を落としそうな状況なら別です。
重大なけがや病気になって、今にも命が途絶えそうなら「死にそう」と言うのも分かります。
致命的な状況なら、一刻も早く助けを求めたほうがいい。
また、長時間労働で心身が疲弊しているとき「死にそう」と訴えることもあるでしょう。
重大な事態のときなら、正直に「死にそう」と言ったほうがいい。
限界に達していることをしっかり表現できます。
最悪な状況であることを伝えることで、きちんと助けを呼べます。
しかし、重大なけがでも病気でもないにもかかわらず、口癖で安易に発言しているなら注意が必要です。
ときどき「死にそう」が口癖の人がいます。
「宿題が多すぎて死にそう」
「仕事が面倒で死にそう」
「毎日つまらなくて死にそう」
「あの人が嫌いで死にそう」
「嫌なことがありすぎて、死にそう」
こうした口癖の大半は「死にそう=とてもつらい」という意味で使われています。
「死」は、人にとって最悪の状況です。
死ぬ以上につらいことはありません。
死ぬと、完全に人生が終わります。
自分の惨状を分かりやすく伝えようと、わざと強い言葉を使っていることもあるでしょう。
死を連想させる言葉を伝えば、いかに自分が大変で苦しいのか、しっかり伝わるように思えます。
本人は軽い気持ちで使っているのかもしれませんが、注意したい口癖です。
「死にそう」という口癖があると、ますます死にそうになります。
自分の声を一番聞いているのは、自分です。
「死にそう、死にそう」と言うたびに、自分に対して「死ね、死ね」と言っていることになります。
つらい気持ちが増幅され、ますますむかむかしてきます。
心の自然治癒力を妨げ、心がどんどん不安定になります。
ネガティブ思考がますますエスカレートします。
「死にそう」という口癖があると、ますます死にそうになるのです。
人生によい影響を与える言葉ではありません。
「死にそう」と言うくらいなら、普通に「大変」「つらい」「厳しい」と言ったほうが、まだ丁寧です。
もしくは「まだまだこれから」「もう少し頑張る」といった前向きな言葉を言うのもいいでしょう。
「死にそう」という口癖は、百害あって一利無し。
たとえ口癖であれ、自分の首を絞めるだけです。
「死にそう」という口癖は、マイナスに働くことはあっても、プラスに働くことはありません。
軽い気持ちで「死にそう」と言わないことです。
心当たりがある人は、できるだけ早めに直しておくのが賢明です。
🌟前向きに🌟
薄暗い夕暮れ時、犬と一緒に散歩していると、ときどき光り輝く犬の目を目撃することはありませんか。
きらりと目が光り、目の中に電球があるようです。
初めて見るとぞっとします。
いつもは優しい表情の犬が、夜に近づくにつれ、悪魔の使いにでも変身したかのように見えます。
心配ご無用です。
決して、犬が悪魔の使いに変身したわけではありません。
犬の目が光るのは、実は特殊な目の作りになっているからです。
そもそも犬は「視力が悪くても暗闇には強い」という特徴があります。
猫も同じです。
犬も猫も、祖先はもともとは夜行性だったためです。
そのため、光の小さな暗闇でも見えるように、目の作りが少し特殊になっています。
分かりやすくいえば、反射鏡です。
目の奥に「タペタム(輝膜)」という反射鏡の役割を持つ膜があります。
この光を反射する膜があるおかげで、目の水晶体の中で小さな光が大きな光へと増幅され、暗闇でも見えるようになっています。
このとき、たまたま人と犬との目が合うと、犬の目が光っているように見えるだけです。
夜中に犬と散歩をすると、暗くて危ないと懸念する飼い主もいますが、心配するほどではないようです。
たとえ夜でも、わずかな月の光さえあれば、十分見えているはずです。
犬と夜中に散歩しても、きちんと道がよく見えていますし、ぶつからずに歩くはずです。
むしろ人間のほうが、うっかり電柱に頭をぶつけるということもしばしば。
夜は、犬の得意な世界なのです。
おはようございます(^o^)
「かもしれない」
「よく分からない」
「どちらかといえば」
こうした表現を使う人を、ときどき見かけます。
はっきりしない態度は、どこかで「責任回避」が感じられます。
表現をぼかして、自分のところに責任がこないように分かりにくいように逃げています。
この「逃げ」が感じられる表現があると、男らしさに欠けてしまいます。
男らしさとは、責任を背負うことです。
逃げない態度が大切です。
自分の発言に責任を持って、きちんと最後まではっきり言い切ることで、シャープな印象を与えることができます。
私は学生時代、小論文の先生から「絶対に曖昧な表現を使うな」と厳しく指導されたことがあります。
「曖昧な表現を使うと、小論文は必ず失敗する」
言い切れと指導する先生は、このように言い切りました。
このはっきりした指導をしてくれたおかげで、指導を受けた私も意図がしっかり伝わりました。
このように指導をする先生からも、強さがみなぎっていたことを覚えています。
はっきり言い切る姿勢が分かりやすい説明になり、多くの生徒から人気を集めていたのでした。
この金言は、あれから数十年経った今でも私の生活の中で役立っています。
言い切る表現で、聞く人の心に突き刺さり、覚えやすく忘れにくくなります。
曖昧ない表現は、男らしくありません。
男らしくなるためには、はっきり言いすぎるくらいでいい。
自分の言いたいことをはっきりすることで、その人の哲学や考え方など「芯」が感じられます。
男らしさは、はっきりした発言に現れるのです。
おはようございます✨
明るい場所から暗い場所に突然移動すると、真っ暗で何も見えなくなります。
「これでは何もできない。つまずいて転びそう」
どうしようもなく、何も行動できなくなります。
たしかにしばらくは完全な闇に思えます。
ところがしばらく経つと、面白い出来事が起こります。
だんだん目が暗闇に慣れてきて、真っ暗と思えた暗闇の中に、かすかな光を発見するのです。
一度目が慣れると、数多くの光があることに気づくでしょう。
暗闇に目が慣れたとき、月の光がまぶしく感じる状態と同じです。
あなたの人生も同じです。
「未来は真っ暗。どうしようもない」
「絶望的な状況。どう生きていけばいいか分からない」
真っ暗に思える未来かもしれませんが、今はまだそう見えるだけです。
もうしばらく待ってみましょう。
だんだん目が慣れてきます。
すると、真っ暗と思えた未来にも、かすかな光があることに気づくでしょう。
絶望の状況では「未来が真っ暗」という悲観の声をよく聞きますが、実際のところ、完全に真っ暗な状況はあり得ません。
そもそも生きていることが、すでに1つの光だからです。
命という光があるなら、光は確実に1つは存在するので、完全な闇にはなりえません。
まだほかにも光があるでしょう。
自分が持っている、わずかな恵みに気づくことです。
そのかすかな光を大切にしましょう。
目が慣れると、かすかな光さえ、まぶしく感じるはずです。
こんばんは🌙
どうも日本人には変な我慢癖があり、嫌なことや嫌いなことでも我慢をすることが美徳であるという考え方が根強くあります。
そのため我慢を避けることが、人間として失格であるように見られる風潮があるのです。
しかし、そんなことをしている人に限って、表情が暗く、元気がなく、いつもため息をついているのです。
自分から嫌なことや嫌いなことを我慢してまでやり続けている自分に原因があるのです。
元気がない原因は、元の気ではないからです。
しかし、そんな元の気からわざとそれさせてしまうようなことをし続けているのは、自分なのです。
嫌なことでも我慢する癖があるために、自分にとって有害なことに気づいても、やめられない止まらない状態になっているのです。
「我慢はすれば、いつか直る」という考えもあるようですが、誤解です。
我慢はすればするほど、苦手意識が強くなるため、もっと嫌いになります。
さらに嫌いになれば、元気をなくさせる存在になります。
私は昔からグリーンピースが大嫌いでした。
幼稚園のころからずっとグリーンピースを見るたびに元気がなくなり、口にした日には吐き気がするくらい嫌いでした。
グリーンピースだけを残した私を見た先生が、無理やり食べさせようとしたために、私はグリーンピースが嫌いになっていきました。
我慢をさせてまで食べさせていると、そのうち好きになって食べるようになるだろうとおかしな勘違いをしている先生でした。
まだお尻が青かった私は「我慢をすれば、本当に好きになって食べられるようになるかもしれない」と信じていたのです。
そのため当時の私は我慢をして、グリーンピースを食べた(食べさせられた)記憶ばかりがあります。
給食でグリーンピースを使った献立が出るたびに、表情が暗くなり、元気もなくなり、いつもため息をついてしまっていました。
それでも「我慢して」、グリーンピースを何とか口に入れていました。
小学校6年間無理やり食べ、中学校でも3年間無理やり食べるという経験をしました。
結果としてグリーンピースを好んで食べるようになることは一度もありませんでした。
むしろ我慢の回数を重ねるごとに、傷口にさらに傷を負わせるかのように悪化していき、余計に嫌いになってしまったのです。
成人になった今でさえも、大嫌いな食べ物の1つです。
我慢をすれば、いつか直ってよくなるという当時の考えは、まったく当てはまっていません。
結果だけを見れば、嫌な思い出と余計にグリーンピースが嫌いになってしまったという嫌悪感だけが残っているのです。
「我慢をしなさい」
こう言われることのほとんどは、単なるきれい事で実はまったく意味がありません。
我慢をしすぎると、いつか精神が崩壊します。
どうも大人たちは嫌いなことや嫌なことを我慢してまでやっていると、精神的に大人になれると勘違いをしている人が多いようです。
我慢をすることが人として成長を促し、大人になると、とんだ勘違いをしてしまっているのです。
自然に
何かお手伝いすることはありませんか」
忙しいとき、そんな一言を言ってもらえると嬉しいですね。
忙しそうな人がいたとき、「何かお手伝いすることはありませんか」と声をかけることがあるでしょう。
気の利いた一言を言えば、気遣いや積極性をアピールできそうな気がします。
もちろん悪いことではありません。
積極的に手伝いを申し出ているのですから、むしろ素晴らしい気遣いです。
人間関係では、自発的な協力が大切です。
相手は「助かる」「ありがとう」と、親切な配慮を喜んでくれるでしょう。
「何かお手伝いすることはありませんか」というセリフは、気が利く人らしい一言のように思えます。
しかし、ここに誤解があります。
本当に気が利く人は「何かお手伝いすることはありませんか」と聞きません。
相手にわざわざ仕事を尋ねるのは、まだ本当に気が利いているとは言えません。
気遣いの1つではありますが、本当に気が利く人なら、もう一歩進んだ行動をします。
「○○をしておきますね」と言うやいなや、さっと手伝うのです。
わざわざ相手に質問しません。
相手の様子や状況から必要な仕事を察して、自発的に手伝うのです。
求めている仕事を先回りできれば、相手は驚き、感動するに違いありません。
ベストタイミングで、ベストな配慮をするその様子は、かっこよく写るでしょう。
正確に相手の心情を把握しなければいけないため、難しいことではありますが、だからこそ取り組む価値があります。
気遣いの達人になりましょう。
人には「観察力」「想像力」「思考力」という素晴らしい能力があります。
相手の様子を観察しながら、相手の立場を想像して、思考します。
すると「こうしてほしいのではないか」「こうすれば喜んでくれるだろう」という配慮が見えてくるでしょう。
相手が心で求めている行動を読み取って、先に取り組みましょう。
相手の喜ぶ笑顔を想像すると、楽しみながら取り組めます。
これこそ本当の意味で「気が利く」ということです。